回顧録:榎本美月

 

「そういうかわいそうな子とは仲良くしてあげなさい」
昔から、母に言われつづけてきた言葉だ。

あのときもそうだった。

小学校二年生になって間もないころ
夕飯を食べながら、その日、彩夏から聞いたことを話した。

「さやかちゃんのパパがね、さやかちゃんのママをなぐってるんだって」

小さい私は、その意味をよく分かっていなかった。
とりとめのない雑談のつもりで、事実をそのまましゃべった。

その言い方が、母は気に食わなかったらしい。

「それで?美月は彩夏ちゃんになんて言ってあげたの!?」

「え!?ただジュース飲んで遊んで帰ってきただけ!?」

「そういうときは、ちゃんと相談に乗って、慰めてあげなさいよ」

「もう……本当に……」

「あなたもう二年生でしょう?お友達を気遣うこともできないの?」

「あなたにはお父さんもお母さんもいて、何不自由ない生活を送っているけど、こんなこと、当り前じゃないのよ」

「世の中にはね、辛い思いをしてる人たちがいっぱいいるの」

「そういうかわいそうな人たちには、優しくしてあげないとダメなの」

「何泣いてるのよ?どうしてあなたが泣くの?」

「今から彩夏ちゃんのお家に電話かけなさい」

「さっきは相談に乗ってあげられなくてごめんなさい。これからは私が味方になってあげるからねって言ってあげるのよ」

「わかった?」

「返事は!」

 

私は、泣きながら彩夏に電話をかけた。
「さやかちゃん。さっきは相談にのってあげなくてごめん。これからは私が味方になるから。」

母に言わされたこの言葉が、以降、私の人生を縛り付けることになる。

彩夏はたしかに、かわいそうな子だった。
どんくさくて、頭もあまりよくなくて。
スポーツも苦手で、私以外、友達はいなかった。

そんな彩夏と仲良くしてあげてる自分を。彩夏に頼られている自分を。
どこか誇らしく思っていた。

でも、中学に入ったあたりから、立場は逆転した。

彩夏はいつのまにか、学校で上手く立ち回る方法を身につけていた。

どんくさくて、憎めないおバカキャラ。でも実は絵が上手いという意外性もある。
彩夏はクラスの人気者になっていた。
逆に私は、生来のプライドが邪魔をして周囲から孤立しはじめていた。

それでも、母は相変わらず私に言った。

「彩夏ちゃんと仲良くしてあげてる?」

「あの子はかわいそうな子だからね」

違うよ。

今は私のほうが弱者なんだよ。
私、学校で何て言われてるか知ってる?

「榎本さんって、いつも彩夏と一緒にいるよね」

「ほかに友達いないんじゃない?」

「ほら、彩夏って誰とでも仲良くしてあげるタイプだから」

「っていうか榎本さんって、勉強はできるから彩夏に利用されてるんでしょ」

「たしかに、彩夏ってテスト前になると石川さんによく勉強教えてもらってるよね」

「そういうときさ、榎本さん、すっごい嬉しそうにしてない?」

「わかる」

 

私は、聞こえないふりをしていた。
彩夏も、少なくとも表面上は、私と仲良くしてくれた。

 

私が懸命に勉強を教えた甲斐もあり、彩夏は私と同じ、高偏差値の高校に進学した。
その学校で、私たちは柿沢綾架(あやか)に出会った。

彩夏とは正反対の
大人しくて、理智的な女の子だった。

運命のいたずらか、二人は美術部に入部した。
正反対の一軍女子がアートで競い合う……はたから見れば青春日常系漫画のように思えるだろう。

でも当の本人たちは……少なくとも彩夏にとってはストレスだったらしい。
彩夏はいつも私に柿沢さんの悪口を言っていた。

彩夏が焦る理由が、私には理解できてしまった。

柿沢綾華の生まれ持った綺麗な顔と、お金持ちの家庭で自然と身に着けたであろう気品に比べれば
彩夏のわざとらしい明るさと、人工甘味料のような甘ったるい愛らしさは、どこか安っぽく見えた。

二人の描いた絵が並んで貼りだされたことがあった。素人目に見ても柿沢綾華のほうが自由で魅力的だった。

 

そして三年生の夏、あの事件が起きる。

朝練を終えた私が教室の入口まで来ると、中に彩夏がいることに気づいた。
彩夏は、柿沢綾華のノートをはさみで切り取り、そこに自分への罵詈雑言を書きなぐっていた。

最初は意味が分からなかった。

しかし、彩夏がそれを自分の机に貼り付けはじめたとき、ようやく気づいた。
彩夏は、柿沢綾華に濡れぎぬを着せようとしている。

とめるべきだっただろう。事情を聞くべきだっただろう。
しかし、私は怖かった。

別人のような彩夏が、私に対してどんな態度をとるのか。どんな言葉を浴びせるのか。

それを知るのが怖かった。

 

 

柿沢綾華が死んでから、私は悩み続けた。

弱くてずるい自分を罰するように、悔やみ続けた。自殺を考えたこともあった。
受験生なのに、勉強も手につかず、毎日鬱々としていた。

そんな中、柿沢綾華の葬儀が開かれた。
クラスメイト全員が招待されたが、私は行きたくなかった。

しかし、そんなことを母が許してくれるはずもなく、私は二年前の祖父の葬儀で着た黒い服に袖を通し、柿沢綾華の家へ向かった。

そこで「彼」に出会った。

綾華の兄、柿沢亮だ。
高校時代はテニス部のエースで、生徒会の中心人物。
東京の国立大学に合格し、農学部でバイオテクノロジーを学んでいると噂に聞いていた。

以前は肌の良く焼けた、健康的な美青年だったが
そのときの彼は、血色が悪く、げっそりとしていた。

大事な妹が自殺したのだ。落ち込むのは当然だ。
彼の姿を見て、私はどうしても堪えきれなかった。

彼なら、あのことを話しても……。いや、彼にこそあのことを話すべきではないか。

葬儀のあと、周囲に誰もいないことを確認し、彼に声をかけた。
あの日、私が見たこと。
そして、それを黙っていたこと。
今も悔み続けて、自殺まで考えていること。

すべて告げた。罪の告白だった。

殴られてもかまわないと思っていた。
いっそ私を殺してくれればいいとまで……。

しかし、彼は優しく言った。

「正直に言ってくれてありがとう。あなたも辛かったんですよね。僕も辛いけど、恨むつもりはありません。」

思いがけない言葉だった。

彼は別れ際に「一人で耐えきれなくなったら、また僕に話してください」と連絡先を教えてくれた。

奇妙な縁だった。

私たちはたびたび二人で会うようになった。
彼は帰郷するたびに、私を遊びに誘ってくれた。

死んだ妹のことは、一度も口に出さなかった。
私への気遣いか。それもと、彼自身が思い出したくないのか。
あるいは、妹のことなど関係なく、ただ私と一緒にいたいのか。

思い上がりとは思いつつも、それでも、私と彼の関係は普通ではなかった。

そして……

あれは、12月の雪が降った日のことだった。

彼は私に告白した。

いろんなことが頭を巡った。
彼の妹の死に、私が深く関わっていたのは事実だ。
彼に嫌われても、蔑まれても文句は言えない。

でも、彼は私を慰めてくれた。
自分が許せなかった私を、彼が赦してくれた。

私が柿沢綾華の死から立ち直り、受験勉強に集中することができたのも、すべて彼のおかげだ。

彼に、すべてをゆだねようと思った。

 

翌年の二月。
志望校にも滑り止めにも無残に落ちて、自暴自棄になっていたとき
春休みに帰郷していた彼が、久々にデートに誘ってくれた。

その夜、私たちは初めて愛し合った。
古いホテルの窓の外では、雪が降っていた。

温かいベッドで、夢見心地でまどろんでいる私に、彼は言った。

「美月。僕のお願いをひとつだけ聞いてほしいんだ。」

それは、今まででもっとも優しく、甘い声だった。

 

「一緒に、三杉彩夏を殺してくれないか?」

 

全身の血の気が引いた。

 

帰りのバスの中で一人、茫然と冷たい窓を眺めていた。
首元についたキスマークは、何かの刻印のように思えた。

私は、彼に利用されるために、愛されただけだった。
いや、それでいいんだ。それが正しいんだ。
そもそも、私には幸せになる資格なんてないんだ。

「決心しました。お手伝いします。」
彼にLINEを送った。

それからの彼は、実に事務的だった。

私に任された役目は、彩夏とこまめに連絡を取って、彼女の情報を彼に伝えることだ。

彩夏が上京してすぐ、彼は彩夏のちょうど真上の部屋を借りた。
作戦はこうだった。

彩夏の部屋の網戸は、角がすこしほつれていた。
小さな虫が通れるほどの、ほんの数ミリの隙間ではあるが、
この隙間ならばシリコンチューブは通せる。

シリコンチューブとは、医療や工業に使われる細長い管だ。
網戸の隙間からシリコンチューブを入れ、寝ている彩夏の口の中に、窓の外から毒薬を流し込む。
彩夏は網戸に鍵をかけて寝るため、密室殺人が成立する。

私は、そんなことができるのか半信半疑だったが
彼は「単純な方法ほど失敗は少ない」と言っていた。

幸運なことに、ちょうど彩夏の部屋の窓には、月明かりが当たっていたそうだ。
懐中電灯などをつけなくても、中の様子は良く見えるらしい。

ただし、一つだけ問題があった。
作戦を実行するには、窓のすぐ近くに、彩夏の「口」がないといけない。
しかし、彩夏のベッドは窓からだいぶ離れた場所にあったという。

そこで私たちは、どうすれば彩夏がベッドを窓際に移動させるだろう、と考えた。
そんなある日、彩夏からメッセージが来た。

「通信制限だるいからWi-Fiほしい。どれにすればいいんだろ」

チャンスだと思った。
私は、さも面倒見のいいふりをして、「しょうがないな。私が代わりに手続きしてあげるよ」と言った。
もちろん、そんな手続きをするはずはない。

私は彼と相談の上で「工事の日程」を彩夏に伝えた。

「その日」彼は作業員のふりをして、彩夏の部屋を訪ねた。
彩夏が彼の顔を知らないはずはない。しかし、彼は作業帽をかぶり、黒縁の眼鏡をかけ、
そして何より、顔の半分を覆うような大きなマスクを着けていた。

数年前なら不審者だ。皮肉なことに、ご時世は私たちの味方をした。

彼は、空っぽのルーターをコンセントにつなぎ、彩夏の目を盗んで、監視カメラを仕掛けた。
そして彼は「自分の部屋」のWi-Fiのパスワードを彩夏に教えた。

つまり、彩夏が利用しているWi-Fiは、彼が住む、真上の部屋のルーターから飛ばされているのだ。
それからの彼の生活は、まるで趣味の悪いストーカーのようだった。

監視カメラで彩夏の部屋を常時監視して、彩夏が窓際に行ったときにだけWi-Fiのスイッチを入れた。
彩夏は、見事に勘違いをした。
あとは私が自然な会話を装い、アドバイスをするだけだった。

彩夏がベッドを窓際に移動させたときは、驚くほど事がうまくいったことに
不思議な快感を覚えてしまった。

しかし、私はふと冷静になった。
これで、すべての準備が整ってしまった。

もうすぐ彩夏は……
私たちに殺される。

 

今日、彼からメッセージが届いた。
「しくじった。彩夏は怪しんでる。気づかれる前に実行したい。明日にでも。」

どうやら、彼にとってイレギュラーなことが起こったらしい。
普段、彼が睡眠をとるのは、彩夏が大学に行っている間だった。
その間は、Wi-Fiを操作しなくてもいいからだ。

しかし、今日はたまたま、彩夏が体調不良で早退したらしい。
彼はそれに気づかず、Wi-Fiをオンにしたまま眠っていたのだ。

なにはともあれ、実行日は明日になりそうだ。
しかし、私は迷っている。

殺人犯になるのが怖いわけではない。
ずっと前に決心したのだから。

ただ、奇妙な違和感がずっと消えないのだ。
違和感……というより、疑問だ。

はたして、本当に柿沢綾華は彩夏をいじめていなかったのか?

たしかに私は彩夏の「工作現場」を見た。
悪口の張り紙の件は、彩夏の自作自演だ。

しかし、だからといって、綾華が彩夏をいじめていなかったとは断言できないのではないか。

もしかしたら、彼女は本当に陰で彩夏をいじめていて、しかし、証拠がないから彩夏は訴えられなかった。
そこで、自分で「証拠」をでっちあげようとした。
あの日教室で狂ったように自分への罵詈雑言を書く彩夏は、いったいどんな気持ちだったのだろうか。

わかっている。彩夏に聞くのが一番だ。
それしかない。

でも……もし彩夏が「いじめられていなかった」と言ったらどうする?
そのとき私は、彩夏を殺すのか?

本当に、それでいいのか?

しかし、このまま何もしなければ、確実に彼は彩夏を殺す。

私には時間がない。
決断のときはせまっている。

 

 

END

警察の調べに対し、柿沢亮容疑者は涙ながらに供述した。

妹が死んだんです。大切なアヤカが。
上京して美大に行って……明るい未来が待っているはずだった。

なのになんで……死ななきゃいけなかったんだ。
アヤカは殺された。

許さない。

絶対に。

 

 

 

 

作:雨穴
ディレクター:かまど
協力:岡本咲来